ちりのこりたる紅葉を見侍りて
唐錦
枝にひとむら
のこれるは
秋のかたみを
たたぬなりけり
遍照(遍昭)
ちりのこりたるもみぢをみはべりて
からにしき
えだにひとむら
のこれるは
あきのかたみを
たたぬなりけり
へんぜう
枝に散らずに残る紅葉を見て
枝に美しい紅葉の錦をひとかたまりほど残しているのは
秋のかたみ なごりを 絶やしていないのだなあ・・・
すでに、立冬からほぼ七日が過ぎようとしています。
いよいよ暦の上では冬です。
とはいえ今年は暖冬になるかもしれないという話もあり、
朝晩は冷えるものの、日中の間はまだ暖かく感じられたりします。
人によっては寒い冬が好きな方もいらっしゃるのでしょうが、
やっぱりあまり冷えないほうがありがたいものです。
ピーンと張り詰めた空気のなかで息を吐くとそれが白くなって、
心までキリリとする冬という季節も悪くはないかもしれませんが、
これも程度の問題、そして年齢や体調にもよりますね。
紅葉も北国では終わり、
東日本の多くで見ごろのピークは過ぎたのでしょうか。
今頃何を言っているのだかですが、もう秋が深まる季節ではなく、
本当に冬のはじまりなんですね。
季節が動いて行くのは当たり前、
なのに微妙な気持ちになるのはなぜでしょうか。
結局のところ、やはり年齢のせい、というわけですか・・・。
紅葉はもちろん、実ってもいないし、
何にも取ってるつもりはないのに、
年だけは取るんですよねえ。
ほんと、しゃれにもなりません。
はあ、 😞
なんだかなあ・・・。
なんとも言えません。 ☺ 😞
何となく切なくなりますね。
遍照(遍昭 へんじょう)さんは六歌仙、三十六歌仙のひとり、
子は素性法師、
というわけで歌のイメージしかなかったのですが、
この人は実は桓武天皇の孫にあたります。
良岑宗貞(よしみねのむねさだ)が俗名だそうです。
良岑、お名前みたいな苗字(?)ですね。
良岑家は、
桓武天皇の皇子であり、
遍照の父でもあった良岑安世(よしみねのやすよ)が
この姓を賜ったことにはじまっています。
遍照は、
第五十四代の仁明天皇(にんみょうてんのう)の崩御をきっかけに
出家しました。
仁明天皇は嵯峨天皇の皇子、
ですからこちらも桓武天皇の孫ですね。
桓武の第三皇子であった淳和天皇(じゅんなてんのう)の譲位で
天皇に即位したためもあるのか、
淳和天皇の皇子の恒貞親王(つねさだしんのう)を皇太子としました。
が、嵯峨と淳和ふたりの上皇が没した後になって、
承和の変(じょうわのへん)と呼ばれる事件が起こります。
これは、謀反を企てた罪で伴健岑(とものこわみね)、
橘逸勢(たちばなのはやなり)といった人たちが
いきなり捕らえられてふたりは流罪となり、
このふたりが皇太子を奉じていたとしてその責任を問われ、
皇太子(恒貞親王)が廃された、
という事件です。
黒幕には藤原良房(よしふさ)がいたと言われています。
事実、仁明天皇と藤原冬嗣の娘順子との間の皇子、
道康親王が立太子、のち文徳天皇(もんとくてんのう)となります。
文徳天皇は藤原良房の甥にあたるそうで、
ということは・・・
冬嗣の娘順子のきょうだいで、
良房は冬嗣の息子、
ということですよね。
藤原冬嗣には没後に太政大臣が追贈され、
藤原良房も太政大臣となりました。
これは皇子以外ではじめての太政大臣、
ということになるのだそうです。
薬子の変でも藤原、承和の変でも藤原、
藤原氏大活躍というか大暗躍(?)ですね・・・。
思うに藤原氏は怨霊が怖くない一族です。
うーん、
それともこの時代にはまだ、
自分たちが怨霊に恨まれる種を
せっせと直接的に蒔いている頃だったので、
のちの子孫の代になるまでは、
やる気に満ちてパワー全開だったのでしょうか・・・。
だから怨霊がそれほど怖くなかったとか・・・。
でも藤原氏はのちの時代でも強いというか何というか・・・。
うーん・・・。
それでこの事件、承和の変ですが、
のちの藤原北家の摂関政治のきっかけ、
というかはじまりとも言える、
ということになるようです。
では藤原北家中興の祖のひとり(?)は藤原良房・・・
ということにもなりますよね。
桓武天皇の第一皇子の平城天皇が、薬子の変で桓武の第二皇子、
つまり平城天皇の弟でもある嵯峨天皇と争って結果負けました。
そののち桓武の第三皇子の淳和天皇が即位してその後に譲位、
その後に即位したのが仁明天皇です。
仁明天皇は嵯峨天皇の第一皇子でもあります。
この時代には妃がたくさんいるからか、
少なくとも血筋から(?)だけ眺めれば皇位の継承は順調みたいですね。
というよりそう見えます。
今となってはそのあたり本当のところはわからないのですけれど。
それはともかく、
皇族も豪族も貴族も子供はいっぱいることでしょうから、
系図も複雑そうで、
専門家の方は覚えるのがさぞ大変なことでしょう。
ただ、実の親子兄弟といっても当然気持ちは違い、
大人になってからの周囲の人間関係にも差があるので、
やっぱり下剋上めいたことは起こってしまうのですね。
仁明天皇の時代、承和の変以外では政情は安定していたようです。
仁明天皇の力もあったでしょうが、
嵯峨、淳和両天皇上皇の賜物とも言えるかもしれません。
古代の天皇の本当の気持ちとを理解する術などありませんが、
藤原氏の勢いが増していく一方なのを、
仁明天皇はどう思っていたのでしょうね。
そしてその仁明天皇に仕え、
崩御を悲しんで出家したと伝わっているのが
遍照です。
臣下とはいっても桓武天皇の孫同士の関係でもあり、
承和の変の際にもいろいろと思うところあったでしょう。
僧正遍照と言われ、
京都の花山で元慶寺(がんぎょうじ 現在の がんけいじ)を開いて
座主となったことから、
花山僧正とも呼ばれているのだそうです。
小野小町とも和歌を通じて交流があったと言われています。
百人一首にもとられた
乙女チック(?)な雰囲気の有名な和歌を詠んでいたりするので、
ただ何となく平安時代の歌の上手なお坊さん、
などと思ってしまっていたのですが、
平安時代人といっても遍照さんは意外と古くて、
しかも高貴なお生まれだったんですねえ。
それに加えて貴人としては、
遍照さんもそれなりに激動の人生だったのかもしれません。
仁明天皇は四十一歳で崩御、生来病気がちだったようです。
対して遍照七十五歳没、と長命ではありました。
古い時代ですから極めて長生きと言っても、
遍照さんはたぶん許してくれるでしょう。
俗世にいたときの子供がのちの素性法師、
こちらも三十六歌仙なので、
歌の才能を受け継いでいます。
和歌で有名な歌人は、
当然ですが歴史的な人物という意味でも
重要なのですね。
歌だけ眺めていると、
そんなことをそれほど深く考えなかったりします。
だけれどもさらりとした事実関係だけでなく、
少しだけ探ってみれば、
それだけ違った歌の背景が眺められるもののようです。