たくさんの思いが・・・

もののふの
八十宇治川の
網代木に
いさよふなみの
行方知らずも

柿本人麻呂

 

もののふの
やそうぢがはの
あじろぎに
いさよふなみの
ゆくへしらずも

かきのもとのひとまろ

 

宇治川の網代木で川の水が揺れる
私たちもこの漂う川波のようにどこへ行くのかわからないのだよ

 

 

万葉集の大歌人、柿本人麻呂さんの歌です。

 

詞書に
柿本朝臣人麻呂 近江の国より上り来るときに宇治川のほとりに至りて作る歌一首
とあるそうです。

 

文法めいたことは苦手であんまり考えたくないけれども
もののふの八十が序詞で
宇治というのは音が同じ「氏」を導く
もののふ というのはこの時代だと物部の字を当てたりして
武士ではなくて朝廷にお仕えする役人のこと
八十はいっぱい
だから
もののふの八十宇治川 でたくさんのお役人
というような意味になる、というかそういう意味を導くそうです。

網代木は漁のために川に打ち込まれた杭のことです。
これに網をかけるのでしょうか。

 

柿本人麻呂さんは歌人としては有名ですが、
官吏としてはあまり官位が高くなかったらしいです。

考えてみればこのパターンは多い印象で、
芸術家や文化人イコール身分が高いなんて都合よくはいかないもの、
というよりはそのほうが何だかほっとしたりします。

忙しい政治家だの高級官吏だのが別の方面に才能を発揮するのは難しそうで、
それに才能といっても種類のようなものはあるでしょうし、
芸術方面でも大活躍とはいかないのは当たり前といえば当たり前ですよね。

 

上の歌の多くの役人のなかのそのひとりは
当然柿本人麻呂さんのことでもあるのでしょう。

 

古代の宮仕えというのがどんな感じだったのか
正直あまりピンときません。

ただこの歌の感じからみると、非常に安定的とは言えなかったようです。

自分のような身分の者たちはどこへ行くのか流されるのかわからない・・・
そういう気持ち、悲しい運命を嘆いた歌でもあるし、同じような人たちが
今どこでどうしているのやら、そもそもこの世にいるのだろうか、
というような感情が入った歌だと考えられます。

 

ボーっとして和歌が好きだとか何だとか思っている場合ではない深刻な状況を
歌っていたのですね・・・。

流れる言葉が綺麗なのでそっちにばかり気をとられると歌に込められた思いが
どこかへ行ってしまいます。

この歌は自分自身の運命を思っただけではなく、たくさんの人の思いにも
共感しているんですね。

 

川の水は下流に流れるけれども、それだけじゃなく途中で蒸発(?)しちゃったり、
誰かに汲まれたりするかもしれないもんなあ・・・。

人生を川の流れに例えたりすることはよくあり、これって昔からなんだ・・・。

大昔の宮仕えってけっこう大変だったんだな・・・。

 

ひょっとして、伝説的な歌人が幸福な状況ばかり詠んだとしたら、
大歌人とは言ってもらえないのでしょうか。

そうでもないか。

 

うーん じゃあ結局どこへ

 

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