木のくれの
夕闇なるに
霍公鳥
いづくを家と
鳴き渡るらむ
詠み人知らず
このくれの
ゆふやみなるに
ほととぎす
いづくをいへと
なきわたるらむ
よみびとしらず
木の下が暗い夕闇どきになる頃
霍公鳥はどこを自分の家だと(思って)鳴いて渡るのでしょうか
ホトトギスが詠まれた歌、
初夏といえば 夏といえば ホトトギス にからめて詠む、
ということになっていたらしい王朝人の和歌の世界、
暑いの寒いのその他もろもろなんたらかんたらは、
なるべく勅撰和歌集には採用されないことになっていたように見えます。
時代が新しくなっていくにつれて、やっぱりそうなっていったのでしょうか。
川柳じゃないからなあ。
でもとりあえず上の歌は、万葉集にある歌、
古いです。
この歌は特に自由な感じでもないけれど、古い歌のほうが自由なイメージです。
古いので誰が詠んだかも伝わっていません。
そんなことより、個人的には夏の夕暮れどきを詠んでいる、
というのが良い感じです。
梅雨になる前のまだ湿度が高くならない今頃には、
澄んだ空気のなかの夕日はなかなか綺麗に見えます。
夕暮れは毎日やって来て夕日も毎日沈むのですが、
その光景は当たり前ですが同じではないんですね。
日が長くなった時期だけに、
日が短い時期とはまた違った趣のようなものがあります。
雲も何やらキラキラしているなあ・・・。
なんか輝いてる・・・。
眩しい・・・。
ところで夕暮れどきだってほととぎすは鳴いて飛んでいるのでしょうが、
いつ鳴き声を聞いていたとしてもたぶん気がつかない・・・。
春を告げることになっているウグイスは
ホーホケキョでわかりやすいのですが。
ウグイスといえば、ホトトギスにとって足を向けては寝られない存在です。
なぜかと言えば、主にウグイスに子育てしてもらっているらしいからです。
これは托卵というものなんでしょうね。
古代の人がそれを知っていたかどうかはわかりません。
でも変な話ある意味いい感している・・・。
春といえば和歌ではウグイス、
夏といえば和歌ではホトトギス。
春を告げるウグイスのそばには夏を告げるホトトギスがいる・・・。
多くのホトトギスにとってウグイスは育ての親・・・。
ウグイスの春の初音に注目していれば、
自然ホトトギスの夏の初音だって聞こえてくる・・・。
これは風流とか何とかではないような気がしますね。
それにしてもウグイスけなげだなあ。
ホトトギスはしたたかですね。
渡って来てほかの鳥の巣に卵を産みつけちゃうんですから。
それで季節が変わったらまたどこかへ。
たくましいです。
小さな命にもいろいろなことがあるということですね。
和歌だろうが短歌だろうが自然や生き物になぞらえて詠む、
これは通常のスタイルなのでしょうが
生態めいたことを少しだけ知れば内容がより深まるかもしれませんね。
何でも自由なわけ
ないんだな