涼しさが欲しいなあ・・・

 

水風晩涼といへることをよめる

 

風吹けば
蓮の浮き葉に
玉こえて
涼しくなりぬ
ひぐらしの声

源俊頼

 

かぜふけば
はすのうきはに
たまこえて
すずしくなりぬ
ひぐらしのこゑ

みなもとのとしより(しゅんらい)

 

風が吹いて 浮いている蓮の葉の上を露の玉が行き過ぎて涼しくなりました
涼しげな蜩の鳴き声も聞こえてきます

 

 

何だか梅雨がいつはじまっていつ終わったのかよくわからない、
なんて思っていたら、暑い暑い夏がやって来てしまいました・・・。

 

こうなると勝手なもので、
少しくらい雨が降ってくれればいいのに、などと思います。

 

雨が降ってはジメジメする、晴れたら晴れたで今度は暑い・・・
寒ければやっぱり寒ーい・・・と自分勝手ですね。

 

そうは言っても涼しい風が恋しい、少しなら雨よ降れ、となってしまいます。

 

最近ではめったに降らなくなってしまった感がある、
ざあっと強い雨が一度に降ってきて、わりとすぐにやんで涼しくなる夕立、
いいですね。そういうのも。

 

気象が時代とともに変化するのは当たり前なのでしょうが、
どうも近年ではそのサイクル(?)が妙な気もして、不安になります。

考えすぎでしょうか。

こういうことは専門家でも意見が一致することはなさそうだし、
何を信じたら良いのかわかりません。

結局人間は今も昔も、自分が生きている環境のことをそれほどわかってはいない、
そういうことでしょうか・・・。

 

天気予報はけっこう当たるようになったけれど、
だからって何でも予想できるわけではないですよね。

 

ただ、昔の人のほうが自然と共生していたでしょうから、
現代人より知恵がある、そう考えて間違いはないのかもしれません・・・。

 

上の歌はおそらく夕立が降ったときの様子を詠んだものです。

 

風が出てきたなと思ったら雨がさあっと降ってきて、その後涼しくなって、
蜩の声も聞こえています。

 

いいなあ・・・。

 

いかにも夏らしく心にしみます。

 

蜩は俳句では秋の季語なのだそうですね。

でも実際にはもちろん夏だって鳴き声は聞こえます。

林などから蜩の鳴き声が聞こえてくると、涼しさを感じるのと同時に
何とも言えない心地がして、季節の移り変わりを意識したりするので、
単純に昔と今の暦の違いだけではなく感受性の問題も、
秋の季語に選ばれた理由かもしれません。

 

あんまり暑いとセミの声だって鬱陶しく感じるものですが、
蜩の鳴き声はまだ愛されているようです。

 

お日様はありがたい、とにかくありがたい存在ですが、
だけどこうも暑いと照りつける日差しについ文句のひとつも言いたくなります。

身勝手な人間を(私だけか・・・)、許してください。

 

ああ、それにしてもとりあえず夕立でも降ってくれないかなあ・・・。

 

雨の潤いも大切
太陽の光りもとても大事
なのになのに感謝ばっかりじゃないのは
どうして?
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