葦辺行く
鴨の羽交ひに
霜降りて
寒き夕べは
大和し思ほゆ
志貴皇子
あしべゆく
かものはがひに
しもふりて
さむきゆふべは
やまとしおもほゆ
しきのみこ
葦がはえる水辺を泳ぎ行く鴨の羽の上にも霜が降りる寒い夕方
こんな夕べには旅もつらくて
故郷の大和のことが思い出される
何だか今さらですが、
寒い寒いと思っていたら、
屋根の上に霜だか雪だかが降りていて
白くなっていました。
ああ、冬です。
寒いのは当たり前ですね。
暖冬だの何だのいっても冬はやって来ます。
で、何となく前の続きです。
自分は和歌が一応好きだったりするので、
歌と作者は記憶に残っていることもあります。
ですが詠まれた時代が、自分が勝手に思っていたのとは、
実際とかけ離れていたりします。
例えば有名な小倉百人一首は藤原定家が選定したと伝わり、
成立は鎌倉時代初めのことです。
ただ選ばれた和歌は天智天皇をはじめ古代の歌や、
平安時代から鎌倉時代初期までの歌など、
長い年代にわたって詠まれた作品です。
でもカルタなんかに描かれる際には、
みんな平安装束だったりもしますね・・・。
だからといっては何なんですが、
ぼんやり和歌を眺めていても、
それほど歴史の勉強にはなっていない・・・
そんなことが痛感されたりする今日この頃・・・
だって小倉百人一首だって、
平安時代っぽかったりするのです。
もちろん私の勝手な受け取り方です。
はい、学がなく、
勉強も足りないのはわかっています・・・。
そんなわけで、
前回のお名前があったかそうな湯原王が志貴皇子の子で、
その志貴皇子は天智天皇の子、
だから湯原王は当然天智天皇の孫なのですが、
私のイメージでは天智天皇ってけっこうな古代人・・・
だったんです。
志貴皇子も万葉の歌人のイメージが強いのですが
(残っている歌は少ないらしいです)、
奇妙にも平安時代に近いような感覚もあって・・・
それは自分の愚かさなのでどうでもいいことですが、
天智天皇といえば大化の改新・・・
古い・・・
その天智帝の第七皇子、
または第三皇子との説もある志貴皇子、
その志貴皇子の第六王子が
前回登場した白壁王こと光仁天皇で、
この方は政治的に平安時代への基礎を築いた方とも
言われています・・・。
・・・って、
光仁天皇が即位した年齢が
当時としては高かったとはいえ
(六十二歳だそうです)、
そして御父上が何歳くらいのときの子か、
ということもあるでしょうが、
それにしても何だかいきなり白鳳時代だか飛鳥時代から
奈良時代終わりか平安のはじめてにでも移行したような錯覚を覚えて、
個人的には驚きです。
奈良時代の終わり頃に天智天皇の子孫がいたって
別に不思議はありません。
だけどだけど孫って世代が近くない?
なんて思います。
奈良時代より前の時代区分が
素人にはよくわかりにくい、
というのもあるのかなとは思うのですが、
要するに古代ってスピーディー?
だけど意外と長生きの方も多い?
だからこういう奇妙な感覚になるのでしょうか。
短いようで長くもある時代の真っただなかで、
だからこそかもしれませんがわりとすばやく
何事かが起こって終わり(?)、
また何かがはじまっています・・・。
それを〇〇時代だとか〇〇の変だとか名づける(?)のは、
だいたいはのちの時代の人なのでしょうが・・・。
くだらないことを書きましたが、
和歌を眺めているだけで
歴史を何となくさわりくらいはわかった気になっていても、
結局すごく断片的だったということですね。
長くなりました。
上の歌です。
この歌は何でも慶運三年(七百六年)
秋の終わり頃、文武天皇行幸時、
難波宮に行かれた際の
志貴皇子御作だそうです。
鴨の翼にまで霜が降りているというのは、
本当に寒そうですね。
「羽交ひ」というのは、
鳥の両方の翼の先が
重なり合っている部分のことなのだそうで、
そんな言葉まであるなんて、
古い時代はむしろ今より
語彙が豊富なのかもしれません。
前回の続きとして、
本当は光仁天皇の時代のことなどを少し書きたかったのに、
くだらないことばっかりで長くなってしまいました。
そんなわけなので、またまた何となく次に続きます。
いつの間にか
またひとつ年を取っている・・・