青々と次々と

花散りし 庭の木の葉も
茂りあひて
天照月の影ぞまれなる

曾禰好忠

 

はなちりし にはのこのはも
しげりあひて
あまてるつきの かげぞまれなる

そねのよしただ

 

花がすっかり散ってしまった庭の樹々も 葉が生い茂ってしまって
空に照る月の光が わずかにしか差し込まない

 

 

春の花はおおかたすっかり散ってなくなり、今では葉が茂り初夏の姿となって
そんな樹々の下では、
空に浮かぶ月の姿さえうかがい知ることができないほどです。

 

新緑の季節が深まって行きます。

 

初夏の季節は植物も元気なイメージなのに、
この和歌ではむしろ何か物憂げというか、
微妙に寂しさのようなものも伝わります。

気のせいでしょうか。単に庭の風景を詠んだだけなのでしょうか。

 

和歌で月はよく詠まれますが、緑がさかんに生い茂る時期の月を詠むのは
案外多くないのでは、と思います。

 

月は満ち欠けを繰り返してその姿の変化は毎月眺められるのに、
昔の人にとってはいつの月を詠んでも良い、というわけでもないようですね。

 

昔の人が「自然」に心をなぞらえたりした和歌を詠むのは
正統的という感じがしていたのですが、歌を詠むうえで趣というか何というか
そういうものを大事にしていた結果、
言わずもがなの決まりのようなものができあがったのでしょう。

 

でないと、なぜこの季節には月を詠んだ和歌が多くないのか、
なんていう疑問に対しての答えが見つかりません。

 

ただいずれにしても現代にはその基準のようなものが細かく伝わっていないのは
確かでしょうから、かえって些細なことが気になってしまう、
これは私だけでしょうか。

 

それにしても、明るい月は闇夜にはありがたく感じるもの、
それが元気な樹々に遮られているという表現には、
深い意味でもあるのかと勘ぐってしまいます。

 

そう思うのは自分が人が悪いということなのかな・・・。

 

この歌の作者はけっこう頑固で偏屈なところがあったらしく、
今となっては本当のところはわかりませんが、
呼ばれていない場に加わろうとして追い立てられてしまった、
なんていう逸話も伝わっています。

 

自分としてはこんなこともいろいろ考えてしまう理由ですね。

 

ただ、月の光が、太陽の光ならばなおのこと、
遮られることなく世を照らしてほしい、
これはおそらく古くから変わることのない願いです。

 

それによって、それこそ草木や花も大いに成長してさらに美しくなるのですから。

 

少なくとも植物は頑固者は邪魔だなんて言葉にも態度にも出しませんよね。

 

春には
花が咲き
ぐんぐんと大きくなって
木陰をつくり
風が吹き渡り
鳥の憩いの場
見目麗しく
長い長い間
立ち続ける

 

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