雨の季節がやって来る

夏まけて
咲きたるはねず
久方の
雨うち降らば
移ろひなむか

大伴家持

 

なつまけて
さきたるはねず
ひさかたの
あめうちふらば
うつろひなむか

おほとものやかもち

 

夏になってようやく咲いた はねずの花
雨が降ったら色があせたり散ったりしないだろうか

 

 

日本列島、南から北へ西から東へ、
梅雨がやって来ようとしています。

 

1年の半分が過ぎ去ろうとしていますが、その前に感慨にふける間もなく、
雨だの何やかやへの用心が必要な時期になりました。

 

季節が変化していくことは当たり前のことですが、
それでもジメジメする時期、少しばかり憂鬱な気分になります。

 

「はねず」これはなんだろうと思いますがはっきりしていないようで、
夏のはじめ頃に咲く赤っぽい色の花ということしかわかっていないようです。

 

これが「はねず色」になると・・・、少しだけ黄色がかった薄い赤色、
との説明もあったりするのですが、実は色のほうも諸説あるようで、
この色とはっきり指し示すことは難しいみたいですね。

 

時代が下るにつれて言葉の意味も変わっていき、その言葉が何をあらわすのか
よくわからなくなってしまったということはけっこうありそうです。

 

ただ、昔の染色法では洗濯したりすると色落ちしやすいものもあり、
その色があせてしまうイメージから、「はねず色」という言葉を
移ろう心、移ろって変わる心に導く枕詞として、
歌のなかで使っていることがあります。

 

そういうところから考えてみると、
上の歌も、花がやっと咲いて、でもすぐに散ってしまったりしないだろうか、
というわかりやすい意味の他に、変わりやすい人の心というものが
込められているのかとも読めます。

 

むしろこちらのほうが古い和歌の定番のひとつ(?)というか、
和歌らしい感じもしますね。

 

でもそう考えると、
少しひねくれた詠み方をしている歌になってしまうのかな・・・。

 

素直に受け取ったほうがいいのかなあ・・・。

 

移ろいやすい心といったら、
だいたい恋愛がらみで詠んでいるイメージですが、
この歌からは華やかとか色っぽいなどの感じはそれほど受けません。

咲いたはねずの花というのが女性らしいといえばそれらしくもあり、
深読みもできるというところなのでしょうか。

うーん、なんだか面倒・・・。

 

ただし大伴家持氏といったら有名な万葉歌人ですが、
古代の名門の家出身の政治家でもあります。

その立場だと難しいことはどっさりあったでしょうから、
深読みできるといえばその方面からもできます。

政治的な裏切りだの謀略だの、そんなあれやこれやで
人の心など頼みにできないことも多くあったかもしれません。

まさしくあてにできない移ろってしまう心といった感じです。

 

夏の庭かどこかの綺麗な光景を詠んだだろうに、
そんなふうに考えてしまうのは、
こっちがよっぽどひねくれているからでしょうか。

 

確かに素直に受け取ったほうが美しいイメージの歌です。

 

移り変わるのは季節だけじゃない
人も変わる代わる替わる
これって良いこと悪いこと?
たぶんどっちでもないな

 

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