寒いので・・・(三)

 

この雪の
消残るときに
いざ行かな
山橘の
実の照るも見む

大伴家持

 

このゆきの
けのこるときに
いざゆかな
やまたちばなの
みのてるもみむ

おおとものやかもち

 

この雪がまだ消えず残っているときに
さあ 行こう
山橘の実が照り輝いているのを眺めよう

 

 

十二月が終わりに近づいています。
ということはもうすぐ今年も終わりですね・・・。

今年の冬は暖冬だとか言われていたようなのに、
それなりにけっこうな寒さだと思います。

 

ああ、寒さのなか今年も暮れていく・・・
ああ・・・

 

でも、まあ、旧暦ではまだ十一月の半ばが過ぎたところ、
私だけはまだ今年だ、
いつもながらそんなくだらないことを考えています。

 

そういえば暦を活用していないな・・・
使い方がよくわからない・・・

 

それはともかく、十二月二十三日の満月を迎え、
でもあいにくの天気でよく見えません。

寒さで空を見上げている余裕もあんまりないので、
それほど関係ないかもしれませんが。

 

前の内容で光仁天皇(こうにんてんのう)のことを
少し書きたいとか何とか書いた覚えがありますが、
時間がたってしまい何を書きたかったのか
うろ覚えです。

何をやっているのでしょうか。

まあ、いつものことですね・・・。
はあ・・・。

 

ところで、上の歌です。

 

山橘というのは、
山に生えている橘のこともこう呼ぶようですが、
上の歌ではそうではなくて
藪柑子(ヤブコウジ)という植物の別名だそうです。

橘といったら柑橘系だから、
山橘の実もみかんっぽいのかなと思ったのですが、
藪柑子の実は橘には似ていないようです。

藪柑子は「あかだまのき」とも呼ばれ、
正月用の飾りにも使われる、
ということでむしろ〇〇万両とか言われるような実に
近いのかなあと思います。

 

雪景色になかの緑の葉と赤い実、
いかにも綺麗そうなので観賞したくなるのも
わかる気がします。

寒いでしょうけれど。

 

大伴家持が晩年、
と表現したら悪いかもしれませんが、
そんな時期の天皇が光仁天皇でした。

 

大伴家持は古代の人なので生没年は諸説あるようで
一、二年くらいずれているかもしれませんが、
一説では七百十八年頃に誕生、
七百八十五年に没したということです。

 

光仁天皇の在位は七百七十年から七百八十一年、
大伴家持も七百七十年頃に都で、約二十年ぶりに正五位下に昇叙、
ということは昇級、
その後、いつも出て来る藤原氏の陰謀、
とも伝えられる氷上川継(ひかみのかわつぐ)の乱に
関係したとされて官を解かれましたが早くに許され
参議春宮大夫として復帰、
そのあとは諸官を歴任し
最終的には中納言従三位兼春宮大夫陸奥按察使鎮守府将軍
(ちゅうなごんじゅさんみけんとうぐうだいぶ
みちのくあんさつしちんじゅふしょうぐん)
という長い役職名の官位につき、
任地である多賀城(現在の宮城県多賀城市)で没した、
と思われています。

 

光仁天皇のときに従三位にまで出世しているということは、
天皇の信頼も厚かったのではないかと思いますが、
光仁天皇は、ここでもまた藤原、
藤原百川(ふじわらのももかわ)を頼むこと多かったようです。

 

大伴家持は万葉集の編纂者と考えられ三十六歌仙のひとり、
ただ、万葉集の最後である七百五十九年頃の歌から後には、
公には和歌を詠んでいないみたいです。

藤原氏が力をつけていく時代にあって、
古代の有力豪族大伴氏の家長であった家持、
苦労が多かったと思われます。

 

政治的に激動の時代を生きたのですね・・・。

官人というか官吏というか、
としての立場としては不遇の時代が長かった、
と言ってよいのでしょうか・・・。

 

当たり前も当たり前、
月並みすぎる感想なのですが、
和歌にはいろいろな背景があるのですね。

 

とか何とか書いているうちに
千五百文字を越えてしまいました。

 

たいしたことを何にも書いていないのに。
光仁天皇のことはどうしたのでしょうか・・・。

 

そんなわけでまた何となく次に続きます・・・。

 

誰にだって歴史がある

 

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