複雑・・・(ニ)

いづくにか
世をばいとはむ
心こそ
野にも山にも
迷ふべらなれ

素性法師

 

いづくにか
よをばいとはむ
こころこそ
のにもやまにも
まよふべらなれ

そせいほふし

 

どこへか世を避け逃れようか
どこに行ったって
野へ山へ
心はやっぱりさまようのだろうな

 

 

十二月です。
師走です。

いつものことですが、早いですねえ。

 

紅葉はもう終わった感じですが、
西日本ではまだ大丈夫なんでしょうか。

 

赤く色づいた葉っぱって、何とも言えずいいものですね。

いかにも秋らしい、

寒い季節の自然の暖色です。

 

葉っぱの絨毯は片づけるのは大変ですが、
眺めればそれだけでも温かみを感じます。

 

森の小さな虫などの隠れ場所にもなって、
森林の栄養ともなるのが落ち葉なので、
紅葉の綺麗さや秋の象徴というだけではなくて、
自然の営みのなかで絶対に必要な存在ですね。

 

樹木ってかなり完成された生物なんだな・・・。

 

アリだのハチだの一匹一匹は何か細胞めいた生物なのに、
巣をつくり群れになると全体で個体みたいな強い生き物、
といったようなイメージがあります。

 

それはそれで完成されていますが、
樹木は一本でも完成度が高い・・・
ような気がします。

 

それはとりあえず置いておいて、
前回の続きです。

 

生没年だってはっきりしていないくらいの昔の人のこと、
しかも天皇家の親戚筋の生まれです。

そんな人の心、なかなか推し量れませんが、
父親とされる僧正遍照と素性法師の気持ちが一緒、
などというわけにいかなかったのは、
たぶん、たぶん確かなことでしょう。

 

仁明天皇は藤原氏に対して
複雑な思いを抱いていたのではないかとも思われます。

天皇にそんな思いを抱かせた張本人(?)の良房、
仁明天皇のため出家した遍照、
その息子素性が良房のための痛々しい哀傷歌を詠んだ、
というのは何だかしっくりきませんが、
親子だって人生行路も違えば考え方も違うもの、
まして権力中枢藤原氏、
必死になって(?)悲しみを表現するのも
当たり前だったのかもしれません。

 

それとも遍照さん、仁明天皇には殉じて出家したけれど、
古代の政争、これも世の中だからやむなし、
でも自分はなるべく関係なしでいたい、
だから藤原氏、特に良房にも特に意見はなし、
あくまで天皇にお仕えしているのだから、
みたいな感じで淡々と世を送っていたのでしょうか。

 

これはこれで微妙に賢明なような気がします・・・。

 

この場合だと、
そんな親の息子も親子なだけに価値観が似ていた、
だからうわべは思いのこもった哀傷歌だって当然詠める、
と解釈できますね・・・。

 

藤原良房は藤原家の権力確立のため大活躍といった感じで、
承和の変から約三十年後、今度は応天門の変をきっかけに
伴氏、紀氏を権力の中枢から追い落としたりしています。

承和の変のときは伴氏と橘氏に大きな打撃を与えましたが、
応天門の変でも伴氏、そして紀氏が被害者(?)、
古代豪族は大変です。

 

応天門の変とは応天門が焼けてその犯人をめぐっての政争です。

応天門炎上の真犯人って結局誰だったんでしょうか?

何だかいろいろ想像できてしまいます。

 

応天門の変の頃には、
良房の娘の生んだ親王が皇太子となっていました。

それまでも事実上の摂政だったらしいですが、
応天門の変の後で正式に任命されたようです。

 

じっくりと確実に、
したたかに権力を握っていったのですね・・・。

 

藤原家の人って偉いのか怖いのか・・・
研究なさっている方はさぞやりがいがあるでしょうね。

研究テーマが尽きることはおそらくないのではないでしょうか。

 

平安時代に何かが起こればそこには必ず(?)藤原あり、
和歌だの何だのでも藤原氏がどこかでは
関係していることもあるんですね・・・。

何も起きていなくても藤原あり・・・。

 

藤原氏は、わかりきったことですがある時代から
日本の権力の中心であった存在感ある集団、
あまり良いイメージはないのですが、
文化にも貢献したのでしょうね。

当然和歌の世界にだって。

あまり権力と結びついたイメージばかり持ったら
失礼でしょうか。

 

何だかくどくど書いてきましたが、
結論はありません・・・。

というより、結論など出てきません。

頭が弱いですね・・・。

 

ですが上の歌ではありませんが
何やらいろいろ考えてしまって、
心があちこちにさまよっています。

 

つながっていませんが、
無理につなげてしまいました。

 

考えたり思ったり
そうすると
あちらこちらに
心が迷う

 

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