遥か遠く・・・

忘らむと
野行き山行き
我れ来れど
我が父母は
忘れせぬかも

商長首麿

 

わすらむと
のゆきやまゆき
われくれど
わがちちははは
わすれせぬかも

あきのをさのおびとまろ

 

忘れてしまおうと
野を行き山も行き 私は来たのだけれど
父と母を忘れてしまうことはできないのだ

 

 

八月だからか、それとも年のせいなのか、
何だか防人の歌が気になったりします・・・。

 

上の歌、それまで住んでいたところを離れ、
野を越え山を越えて遠くまで来たけれども、
両親のことは忘れたくても忘れられない、
そのつらさや悲しさがよく伝わります。

 

当然元気なまだ若い人、
今だったら青年というよりまだ少年といえるような人も
多くいたのだろうな、親が恋しかったんだろうな、
なんて思ったらやっぱりつらいですね。

 

親子関係というのもいろいろで、
親不孝、子不孝、
様々合わさって複雑な関係、もうぐっちゃぐちゃ、
なんてことも現代にはけっこうありそうですが、
たぶん万葉の時代だってきれいごとばっかりでは
なかったと思います。

 

きょうだい不孝なんていうのもありそうですね・・・。
現代は「〇〇不孝」が起こりがち(?)・・・。

 

それでも、余分な情報もなくだからこそ、
人と人とがある意味当たり前に接することができたのが古代、
そんなイメージを持っています。

 

古い古い時代に旅をすることは
大変なことだったでしょう。

 

ましてや防人の場合、何とか都に集合して出発し無事に着いても、
食料などは開墾しての自給自足だったらしいし、
ひょっとして任務を終えたら現地解散だったのでは・・・
任期中はもちろん行きも帰りも何があるかわからず、
帰れる保証はなかったのだろうと簡単に想像できて、
集められた人たちにとって悲劇以外の何ものでもなかった
のではないかと思ってしまいます。

 

何でも大化2年(646年)が、
今わかっている「防人」の最初の記録で、
法的(?)にいろいろ改訂を繰り返した後の
寛平6年(894年)に最後の記録があるそうです。

 

ずっと東国から人が集められ続けたのかというとそうではなく、
九州の兵士に守らせた時代もあったようです。

やはり遠くから人を集めることには弊害もあったのでしょうか。

 

昔の人たちはたくましそうだから、
帰りの旅の途中で帰ることをあきらめざるを得なくなっても、
居心地の良い新天地を見つけた人もいたかもしれませんね。

運が良ければですが・・・。

そんな場合には誰かに言づてを頼んだりして
家族に無事を知らせたのでしょうか。

 

ただ、防人の人たちが、
どうにか無事に帰ることができたり、
あるいはどこかほかの場所に落ち着くことができたりと、
明るいことを想像してみたいのですが、
歴史で覚えていることの影響もあって、
何となく暗いことばかりが思い浮かびます。

 

今年の八月は、
晴れとなったら徹底的な晴れといった感じですが、
気持ちのほうは晴ればかりとはいきませんね。

 

人生行路はいつもいろいろ
ただ たぶんだけど
良いことだってあるよねえ
PAGE TOP