ことならば
思はずとやは
言ひはてぬ
なぞ世の中の
玉襷なる
詠み人知らず
ことならば
おもはずとやは
いひはてぬ
なぞよのなかの
たまだずきなる
よみびとしらず
同じことなら 思ってはいない とはっきり言えないものか
なぜ この世の中では 襷をかけるように
頼みにならない人に思いをかけてしまうのだろうか
6月6日は芒種、二十四節気のうちのひとつで、
夏至の前の日までの15日の間のことを言います。
ただ、今のカレンダーでは一般的にその期間の1日目を指すようです。
なんでも、古来から芒(のぎ)を持つ穀物の苗を植えたり、麦を刈ったり、
あるいは種まきにふさわしい時期とされてきたそうです。
芒(のぎ)というのは、
イネ科の植物の外花穎(がいかえい)とやら言われる部分の先が、
細長く剛毛のように突起物状になった状態のこと・・・
言葉ではよくわかりませんね・・・。
イネ科の植物には穂があるから、
たぶんそのあたりのことなんだろうと思います。
穂をもつ植物、穀類を本格的に育てはじめる、
または刈り入れをするのに良い時期だということなのですね。
上の歌は俳諧歌(はいかいうた あるいは はいかいか)に分類されています。
言葉の使い方や内容に滑稽味がある和歌の形態のひとつ、
ということだそうです。
でも上の歌はそんなに滑稽なのかなと思ってしまいます。
切実な想いと自分を笑うような感じが同居しているのが、
おかし味を感じるということなのでしょうか。
昔の高貴な人が襷をかけたりしないだろうから、和歌の編纂に関わった方々が
その辺も考慮して分類したのかなあ、なんて無知なりに考えます。
想いがかなわない相手なのにいつまでも想ってしまう、
または願いをかけたい状況があるけれどもかないそうもない、
自分でもわかっているのに頼みにしてどこかですがっている・・・
どんな状況かはよくわかりませんが、胸に迫ってくる何かがある歌だと思います。
時代が違えば言葉の響きも違って感じられて、その頃には必ずしも美しい歌とは
思われていなくても、現代人には流れるような言葉の響きがあると感じるのかも
しれませんね。
種をまいて実りを待つその間にはいろいろなことがあります。
雨の降り過ぎ、日照り、冷夏、その人それぞれの持つ技術の差、
その他にも様々あってもしかしたらうまくいかないことばっかり
かもしれません。
それでも実りの時期を期待していろいろなことを試したりするのが人間、
そうでなければいけない、ということなのかな・・・。
頼みにならないなどと思ってしまいますが、
そんなこと言わないでと言う声もどこかから聞こえてきそうで、複雑です。
そうはいってもとりあえずは種をまいてみないとはじまらない、
ということで、ああ、やっと歌につながりました。
現代では襷を使うことはあまりありませんが、これだって大事な品物、
この世の中からなくなったら困ってしまうかもしれません。