今更に なに生ひづらむ
竹の子の
憂き節しげき
世とは知らずや
凡河内躬恒
いまさらに なにおひづらむ
たけのこの
うきふししげき よとはしらずや
おほしかふちのみつね
今さらながら 不憫なこの子はなぜ生まれてきて
すくすくと成長していくのか
竹の子の節を思わせる折節に起こる世の出来事は
つらいことばかりだというのに
凡河内躬恒さんは、和歌の世界で活躍した
言うまでもなく有名な歌人のひとりです。
ただ、官吏としては決して華々しい経歴とは言えなかったようです。
本人としては不遇感が強かったのかもしれません。
そんなところがよく伝わってくる歌です。
この歌の「子供」というのは我が子だったのでしょうか。
今更に なにおひづらむ こんな言葉から、少し突き放している印象を受けます。
我が子のことだと解釈するのが、もしかしたら一般的なのかもしれませんが、
だとすると冷たい人とも感じてしまいます。
この時代の貴族の男性が女性のところに通う、
通い婚というのはよく知られていることですよね。
貴族社会の一員ならば人によっては何人もの妻がいたようで、
しかも男性の扶養義務のようなものも
必ずしも強くなかったらしいですから
子供が多くても不思議ではないのですが、
それにしてもたとえ10人目の子供でも、
もう少し情みたいなものがあって良さそうな気がします。
自分の子供のことだとしたら、凡河内躬恒という人、けっこういやな奴、
なんて失礼ながら思います。
個人的には、どこかの子供を眺めたそのときの思い、と考えた方が自然、
あるいは10人目、15人目の孫、または遠い親戚だったらわかるかなあ。
というより、そう思いたいですね。
そう考えれば、この嘆きとも何ともいえないような思い、よくわかります。
スッと心に響いて、そうだよねえと言葉に出てきます。
世の中大変なのに、自分で選んで来たのかどうかも記憶になく、生まれてくる、
生み出すほうもいろいろあるでしょうが、生まれてきたほうだって言いたいこと、
思うこと、たくさんあるんです。
だからこそ自分には直接的に関係ない子供を見つめる目にも複雑な感覚を覚える、
こういうことなのでしょう。
元気な子供にとってそんな目線は迷惑かもしれません。
それこそ勝手な思い込み、ということになるのでしょうか。
それでも、そんな何とも哀しい思いで子供も大人も、
そして世の中全体も見つめる人が多いほうが、
実は幸せな人が多くなるのではないかと思えてなりません。
この世には
わずらわしいこと
つらいこと
いっぱい
ああ
なんだか
生きるのが
いやになっちゃう
かなしいと
思ったほうが
なぜか楽になるよね